天界の秘義 2巻 Arcana Caelestia Vol 2

第一巻は、創世記第1章から第9章まで、天地創造の物語の内的意味に始まり、ノアの洪水にいたる、旧約聖書の歴史と預言の背後にある隠された秘密を垣間見ることができました。第二巻は、創世記第10章から、第17章まです。これは洪水後の古代教会に始まり、アブラハム物語で終わります。とくに創世記第16章と第17章は、圧巻です。

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内容紹介

まえがきより

 第一巻で触れたように、旧約聖書にあるモーセ五書の中、最初の二書「創世記」と「出エジプト記」が、この『天界の秘義』全巻の対象になります。第一巻が、創世記第1章から第9章まで、それに続く第二巻は、創世記第10章から第17章になります。

 第一巻で触れたように、ラテン語原典は、全8巻からなっています。その区分けを和訳版に適用すると、ページ数の増加だけでなく、編集・出版、それに携帯にも不便をきたすため、英語版に準じて、全十二巻完結にしました。したがって、第二巻の場合、本書462ページ(1885節)までが、ラテン語原典第1巻に該当することになります。

 原著者が、その記述の中、原典第1巻を参照という場合、訳書の第一巻と混同の恐れがあるため、原典を指摘する場合、第1巻の代わりに「原典vol.Ⅰ」と表記することにしました。したがって本書と後続の和訳版で、「原典vol.Ⅰ、原典vol.Ⅱ、原典vol.Ⅲ」とあれば、ラテン語原典の巻数として、ご了承ねがいます。

 さて、前第一巻の「まえがき」で指摘したように、本書は、通常の聖書講解や釈義と異なり、語句の背後にある隠された意味を開示しています。著者の言をそのまま用いると、主から啓示された内的意味、または霊的意味の開示・解説です。創世記全50章、出エジプト記全40章の、各章、各節、各語句、および一見些細な語順や同義語を含め、文字の自然的意味に埋もれ隠されている意味を明らかにします。そして内的意味こそ〈みことば〉、しかも天界における〈みことば〉であるとします(1540,1887,2094節参照)。書名『Arcana Caelestia』の「arcana 秘義」には、そのような意味があります。

 ここに一例を挙げておきます。創世記第12章から、アブラム、後のアブラハムが登場します。そして主エホバとアブラムとの関係がクライマックスに達し、第17章でアブラハムと呼ばれるまで、この第二巻全体の中心的テーマは、エホバがアブラハムとかわす契約です。

 旧約物語に馴染みのある読者は、すでにご存知のように、アブラハムの妻サラは老年に達して、やっとひとり子イサクが与えられます。ただし、サラはイサクが生まれるまえ、女奴隷のハガルをアブラハムに与えて、イシマエルを生ませます。アブラハム、サラ、ハガル、イシマエル、イサクの五人の関係は、ただ単なる歴史物語ではないことをスヴェーデンボルイは指摘します。登場人物の一人ひとりは、歴史的人物で終わらず、その背後にある霊的事実を表象するものです。霊的事実とは、内的意味のことで、天界の天使たちが理解している〈みことば〉の意味を言います。それは結論的に言えば、主キリストにおける神人合体にいたる戦いの経緯を示します。

 ごく簡単に触れてみると、ハガル(知識への情愛)がイシマエル(合理性)を産んだあと、サライ(神的真理への情愛)を軽蔑したように、合理性(イシマエル)は、神の真理(イサク)が分からず、それを軽蔑します。

 それと同じように、少年イエス(アブラム)が合理性(イシマエル)を身につけ始めると、誘惑がはじまります。堕落した人間性に救いがあるだろうかなどの疑いで、自然的合理性は、霊的真理には届きません。

 しかしその合理性(イシマエル)が育っていくにつれ、やがてサライ(神的真理への情愛)によって、イサク(神的理性)が生まれ、サラ(神的真理への情愛)は、ハガル(合理性への情愛)とイシマエル(合理的人間)を家から追放します。

 このようにして、少年イエス(アブラハム)にとって、合理性が浄化され、神的理性にまで高められていきます(以上については、本書1890,1893,1894,1895,1900、1901,1904,1914,1921,1937,1944,1948,1953を参照)。

 これは人の再生にも適用されます。イシマエルを産まないなら、イサクが生まれないように、人は合理的にならないなら、霊的にはなれません。合理性を身につけ始めた当初は、分からないため霊的価値を認めず、軽視さえしますが、合理性が成長すると、その限界を知って、霊的真理を信仰をもって受けいれるようになります。そのあと古い合理性は姿を消し、新しい理性と、新しい意志が与えられ、再生は進展していきます。 

 聖書が〈みことば〉である以上、それには神の手による執筆意図があります。旧約の歴史も預言も、すべて新約聖書の「〈みことば〉は肉体となり、わたしたちの中に宿った」(ヨハネ1・14)につながります。マリヤから誕生した主イエスが、少年期に達してから、母に由来する遺伝悪と、どのように戦い、それを克服していったか、またアブラハムへの契約は、人類救済の約束にどのようにして繋(つな)がっているかが、予告的に明らかにされています。さらにイエスの「わたしを見た者は、父を見たのである」(同14・9)で集大成され、最終的にイエスの復活による人間性の栄化で、完結していきます。

 主の神人性の完成と、人間の再生は、主の地上での戦いが、すべて人類の救済であったことで、首尾一貫したものとなります。それは本書588ページの次の言葉に端的に表れています。

 「主は、ご自分とおん父との一致にあたって、ご自分と人類との結びつき を目指しておられました。しかもこれを行われたのは、ご自分の心への結び つきです。それがご自分の愛だったからです。結びつきは、すべて愛を通し て行われます。愛こそ結びつきそのものです」(2034節②)。

 本書にあるように、スヴェーデンボルイは、創世記第16章を記しつつ、その記述の難しさを繰り返し告白しています。「それについて理解できるように説明することは容易ではありません」、または「ほとんどできません」と再三記します(本書1889,1904,2004節)。つまり旧約聖書の原語であるヘブル語の語彙に含まれる、あらゆる種類のニュアンス、含意、表意、暗示、その他を、人間の言葉で表現できないだけでなく、天使の知恵を、人為的な記号でペーパーに移し替えることの難しさを表明します。