アルカナ出版は小さな出版社ですが、スヴェーデンボルイの神学著作と、それに付随する教会関連の書籍を1985年以来、出版しております。つきまして、次のような出版後援会がありますので、ご入会いただければ、幸いです。
1. 原典訳 『天界と地獄』、『真のキリスト教』、その他の著作に、興味をおもちの方。
2. スヴェーデンボルイの神学的著作全般に関心があり、その霊界体験・哲学・宗教を通して、真理を探求なさりたい方。
3. スヴェーデンボルイの神学に基づいた新教会キリスト教に、関心をもっておられる方。
4. その著作と関連図書の出版に、会費・献金などで財政的な援助をしてくださり、また出版伝道に積極的にご協力くださる方。
1. 『アルカナ通信』を毎月発送(毎月10日発行)
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会費は、年払い:12,000円、半年払い:6,000円、月払い1,000円です。アルカナ出版は、非利益団体としての公益法人をめざしており、そのための出版献金やご寄付は、その都度感謝してお受けします。今後の出版事業発展のため、どうぞご協力ください。
友の会の集いのまとめ(2023-2024現在)
11/24 洗礼について
皆様の体験やお考えを色々聞くことができ、とてもよい学びの一時間となりました。
① 以前の教会の除名が出来ていないが、再度洗礼を受けることができるのかが疑問。以前の教会では世の終わりが来るからということで、自分では本当の意味の信仰がないまま、洗礼を急がされた。
② 妻がカトリックなので自分もカトリックの洗礼を受けた。イエスは神であるとの信仰にゆるぎがなかったことと、新教会の教えは色々な教会にあり、どの教会で洗礼を受けても違いがないと思った。洗礼を受けて3年目に洗礼に満たされる体験をし、自分の中では初めての信仰生活が始まった。スウェーデンボルグの教義が基盤になっている。
③ 幼児洗礼を受けて、堅信し、信仰告白をしたのは小学生の頃。カトリックの信仰を自分の意志で選んだ。洗礼を受けることで特別感があった。エホバの証人の勉強もしたが、輸血がいけないということで諦めた。カトリックで良かったと思う。
④ 独身時代近くの教会へ行っていたが、その教えに違和感があった。洗礼も受けたが、牧師がいなくなり、スウェーデンボルグの著作を読み始めて教義の違いが分かるようになった。神の摂理の最後の瞬間的な救いが悪であるという記述があったが、完全に否定された。洗礼は、自分の意志をしっかり確立してからのほうがよい。
⑤ 洗礼はうけたことがない。
⑥ 洗礼でなく祝福を受けた。統一教会で祝福を受けたが、日本基督教団でも洗礼を受けた。
⑦ 統一教会で小学生の頃祝福を受け、新教会の日本エルサレム教会で洗礼を受けた。洗礼を受けたことによる変化はないが、厳しい状態でも支えられた。大切なのは、主ご自身が洗礼を受けられたこと。そして、主は弟子たちに、すべての国民に父と子と精霊のみ名によってバプテスマを授けよと言われたこと。
洗礼は罪と悪から清める儀式であり、主とのつながりを深める儀式である。洗礼の役立ちは①この世においてキリスト教徒として生きていくことを誓うこと。また,②霊界において、キリスト教徒の仲間入りをすることができること。
幼児洗礼により、世間の人よりも人にやさしくすることに興味を示し、また、親が聖書をよむことを好み、また喜ぶ。成人になるまで影響する。
洗礼を受けるのは主のみこころであるのは、我々が救いに向かって精進するのを主は助けられるから。主は見えないところで内部人間に影響を与えられる。
私事ですが、わたし(峰子)はカトリックで堅信し、その後新教会で洗礼を受けました。夫(ダニエル)は新教会で幼児洗礼を受けました。子どもたちにも新教会で幼児洗礼を受けさせました。息子は仏教信仰のある妻と結婚していますが、神の存在は認めています。娘を含め、私達は神の存在とスウェーデンボルグの著作をみことばと認めることに疑問を持ったことはありませんし、反対に神の存在を認めないことの方が不思議です。
洗礼の大切さや意味を考えるよい時間となりました。感謝します。
10/27 「天界のよろこび」について
「天界のよろこび」をテーマに話し合いましたが、当初、「教義を学ぶことの大切さ」から「天界のよろこび」を得る話が、現代では自己愛と世間愛が蔓延し、学びを求めることが少なくなり、自然科学が発達し、人間が感覚的になり、宗教も毛嫌いされるようになった、闇バイトなど平気で人を殺すようになった、殺人ゲームなどが原因かもしれない、昔は自然の中で遊んでいて、本物の命に触れる機会が多かった、等等、現代の問題についての語り合いで始まりました。
その後、「愛にはかたちがある」ことに驚いたと、今日の著作からの学びについてのご発言がありました。(天界の秘義553節)そこから、天界的なよろこびは皆幼少期に経験しているという話が続きました。①ほとんど記憶にはないが、子ども(3-4歳)が人に何かあげたあとに見せるよろこびは無垢であり、無償のよろこびである。②乳児を抱く時の幸せ感に天界のよろこびを感じる③乳幼児にあるのは自然的無垢であり、霊的無垢は悪を避け、他人への善をよろこびとするところに生まれる。悔い改めがないと始まらないので毎朝祈りと瞑想をすることで、悪の傾向に歯止めがかかる。④集いの中で考えを分かち合うことによろこびがある。⑤自分では天界の喜びは夢の世界のよろこび⑥子どもにおもちゃを作る人が子どもの喜んでいる姿を想像しながらデザインし、作ること自体が天界のよろこび⑦多神教、一神教での死後の世界の考え方の違い等など、皆様のご意見がとても興味深く、一時間があっという間に過ぎて行きました。
集いの中で、友の会メンバーよりおすすめされていた祈りと瞑想はこちらを御覧ください。
参加された方々にはご紹介しましたが、「新キリスト教聖書協会」のウェブサイトやアプリから、チャットGPTのような機能が新たに加えられたことが、今年のアッセンブリーで紹介されていました。チャットボットでは、スウェーデンボルグの著作に関する言葉の検索ができます。今は漢字だけで検索すると、中国語が出てきますので、漢字に日本語を足したものを検索されると良いと思います。そのうち問題は解消されると思いますが、例えば「天界」だけでなく「天界について」などにしたほうがよいです。チャットボットは「新キリスト教聖書協会」またはウェブサイトまたはアプリの最初のページにあります。ぜひご利用してみて下さい。
9/22 「仁愛」について
仁愛とは理屈ではない。心の感情の一つ。隣人に悪をすることを恐れ、隣人への善をよろこぶ感情。
祈り、悔い改めや瞑想を日々繰り返すことにより、心に以前になかった善い感情が生まれ、実際に悪に直面しても、内なる声によって悪を避けることができるようになる。
実生活の中で、仁愛が欠けているかをどのようにとらえるか、理解することが難しい。
人から憎まれた場合、どのように仁愛をもつべきか。
人から悪く言われたり思われたにしても、そのような側面が自分にあると反省する機会にし、甘んじて受け入れることで、霊的恩恵がある。
仁愛は仏教用語に近い言葉であり、「思いやり」と言ったほうが、日本人にはしっくりくる。
「思いやり」は相手の立場を自分の立場に置き換え、 人の痛み、苦しみ、悲しみに寄り添う。
仁愛という言葉は以前の教会では聞いたことがなかった。「仁」という言葉はにんべんに二人で、人と相親しむこと。一人では行われない。人と接するときは、心に届くようにする。二には結合の意味がある。
愛という言葉は「大切にする」と表現したほうが、日本人に向いている。
神から出た知恵で考えるとき、温和で優しく、哀れみと善に満ちている。神からの知恵がないと、人間は戦争を起こしたりする。
仁愛はまず神を愛し、次に隣人を愛すること。本当に神を愛することで、悪い感情があっても神から来ていないことがわかる。祈ることも隣人愛。
人の良いところを探すようにする。
見返りを求めずに人に良いことを行う。人は自ら愛することはできない。本当の仁愛はイエスからしか来ない。
人から憎まれても、それを自分への試練と思い、相手を受け入れる。主の導きと考える。
教会に行くことが主につながっていると思っていたが、間違えに気づいた。仁愛は、悪を避けて初めて、主からくるもので、自分から出ていない。
仁愛は人間がもっていない本当の愛
仁愛の実践は大切。神の愛と知恵を躊躇なく人に分かち合えるよう努力しなければならない。
8/25 予言・予知について
予知に関しては不安になること自体は地獄的で悪いものである。
死への不安は自己愛を示している。なぜなら身体を私物化しているから。私物化するものが大きいほど不安は増すので、すべてを与えられたものとすれば解消する。
自分の力ではどうにもならないことを心配するよりも、日々の生活の中で教えを実践することが大切。
再生によって自分を変えていくことで結果が変わっていく。
新教会の教えは希望を与える教えであり、予知予定に惑わされる必要がない。
予知予言は避けられないが振り回されないようにする。地震国に住んでいれば常に地震などの災害への準備する必要がある。
6/30「神の偏在」について
「神の偏在」とは、神は空間には存在されないが、個々のもとに存在されるということです。皆様非常に難しいというのが共通の感想でした。それでも、各自がその人なりの側面から考えを語って下さり、とても有意義な時間となりました。
霊的空間は自然的空間を超え、愛・至福・喜びなどの霊的な空間に神が偏在される。
物質世界では霊的世界について考えられない。霊的世界のことを物質世界に持ってきても表現できない。
全治全能の神のもとに、あらゆることが成り立っている。
天使の服が神に近ければ白く、遠くなるに従ってグレーやカラフルな色になる。人間の霊的内面が反映される。
自分がこの場にいることは、自分ひとりの力ではできない。神の偏在は人の霊的な営みの中にある。神の愛が当たり前になって、我々は感謝を忘れてしまいがち。
年齢を重ねることで、主が自分をどのように考えておられたかがわかってきた気がする。神への信仰をもっていたから自分の霊的戦いに神が介入されたように思う。今は神との関係がとても身近に感じることができる。
人間の本質は霊であり、情愛に従って生きてゆく。死後は情愛そのものとなる。
霊界の時間空間はなく、魂の霊的状態による。自分はキリストに近い霊的な状態にいることを望む。この世でお金を蓄えることは大切ではない。天に宝を積み、人を愛し、役に立つ人生を送りたい。
一人ひとりの中に精霊がいる。神は精霊を通して常に人の中で働いておられる。
その他、ブラザー・ヒョク氏、神とのつながりを体験した霊能者(チャネラー)の話なども興味深かったです。
5/26 「霊的に貧しい」とは
今回はマタイによる福音書5章の「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである」から、霊的に貧しいとはどういうことか、という内容で始まりました。皆様のご意見を簡単にまとめてみます。
心が貧しいということは、霊的な本心が悪であることを認めることで、再生はここが出発点となる
十戎の教えを守ることからくる誘惑と試練、その後に起こる良い経験が交互にあることで、徐々に人間は再生してゆく
人間は誘惑の中に置かれたときに成長するが、それはその時の人の心の状態による。
心が貧しい体験が今までなかったので、これからは心が貧しい状態を目指さないといけない。
天に全てを委ね、自分をとおして神様が働かれていることを知ること。自分の力では何もできないことが分かったのは幸い。
10代の頃に霊的な内容の雑誌を読み、それで自分の霊的な病を癒そうと努力していたことを思い出した。霊的に渇いていた。
スウェーデンボルグは霊的体験を人間の言葉で翻訳しているので、霊的な体験をすることで理解が生まれる。み言葉を神の言葉として信じて祈り、隣人愛の役立ちをとおして人に使える。思い煩わない。明日の心配をしない。神様を求めていれば、キリストを迫害していたパウロがキリストに出会ったように、出会う体験も必要。しかし求めていれば必ず与えられると約束されている。
2/25 「主との関係」について
米国のジェネラルチャーチ牧師であるマルコム・スミス牧師から、「主との関係」というテーマで色々な方の考えやご意見を聞きたいとのリクエストがありました。6月に行われるアッセンブリーで話し合われる内容だそうです。そこで、それをテーマにした集いを行いました。色々興味深いご意見もあり、今回も充実した内容でした。この内容はスミス牧師ともシェアしたいと思っています。スミス牧師の質問事項は以下の通りです。①主との関係を持つことの意味②主との結びつきのためにしていること③主との関係の変化と発展④主との関係の発展の上での他人の役割⑤人がしたことで役に゙に立ったこと、立たなかったこと。
この中から自由に選んでお話いただきました。
③を選んで下さった方:元々属していた宗教で40年、主との個人的な関係を持つことができずにいた。様々な出来事を通して神との関係が持てるようになった。著作を読み、理解し、信仰に当てはめることで、主に結びつくことができた。神と個人的に結びつくことが出来ることに驚き、より身近に感じることができた。本当の真理を学ぶ大切さを知った。
③を選んで下さった方:自分の信仰は幼稚だった。「主の祈り」の中にあるプロテスタントの「み名があがめられますように」が、新教会では「み名が聖とされますように」と祈られていることで、主の大きさが無限大に感じられるようになった。
「み名が聖とされますように」の「聖」の意味への質問:「聖」はヘブル語で「神聖なる」という意味。また、一番清い、という意味で、「万物をつくられた、主のご本質をそのまま受け取ることができますように」と解釈できる。
*ちなみにアルカナ出版の「祈りのてびき」では「み名がうやまわれますように」と訳されています。
③を選んでくださった方:真理と善について知ったこと。真理の前に善がなければならないことを学んだこと。
②を選んで下さった方:主と結ばれるためにしていることとして;近くに教会があり、日々教会に足を運び、祈り、聖書の言葉を聞くことで、主と結ばれている。それが生活の一部となっており、それがない人生は考えられない。黙想会にも参加する。
②を選んで下さった方:特に何をしているというわけではないが、イエスが神であると知り、神が人間となられた概念を信じることは、人生にとっての大きな恵みだった。日本にはキリスト教徒が少ないが、若者たちの中には素晴らしい考えを持った者が多く、色々な良いことが起こっている。たとえば村を作って人に役立つことをするなど。彼らが神について知ることができたらどんなに幸せかと思う。霊的に彼らに届けられないものかと思う。自分は巨大人の中でも毛細血管の役割を持っており、神からの命を流す役目があると思っている。
わたしは①番を選び、主との関係を持つことは、自分の中の悪と戦いを意味すると言いました。私の中にある一番の遺伝悪である怒りを抑えるために、主の支えなくしては戦えないからです。その時主は一番私に手を差し伸べてくださっていると思います。
主は常に人間と結ばれようとされている、人間はそれに気づいて主と結ばれる努力をすべき、という意見もありました。
神が「聖」であるお話が出た際、「神」という言葉は日本では絶対神を表すものではなく、重要人物、有力者などにも使われる。みだりにつかわれることも多い、というご意見もありました。「み名が聖とされますように」は心からの祈りです。
1/30 雄勝花物語の紹介
今回、徳水様の自己紹介から始まった3・11からの復興体験のお話に、皆感銘を受け、非常に有意義な集いとなったことに感謝致します。今回出席されなかった方のために手短に要約します。:3・11の津波で全てが流され、過去と未来がなくなり、絶望のどん底につき落とされましたが、当初町を去ることを考えていました。しかし、SNS等で安否を確認する人が大勢いることを知り、自分が神様にいかに守られていたのかに気づかされました。ヨハネ21章で3度主を知らないと言ったペテロが自分の姿であることに気づき、そこから神様は津波や町の破壊という大きな打撃に立ち向かい、人を愛することを望まれていることを知ります。自分の役立ちは何かを考えた結果、学校で復興教育を始め、地域の再生への貢献のため、雄勝花物語に着手しました。神を信頼することで、平安が与えられ、行動が生まれて来ることを経験しました。被災した人々の交流の場として、癒やしの空間として、多くのボランティアに支えられながら今も続いているとのことです。災害の裏にはサタンがいますが、神の御心を行いたい・仕えたいという思いに神は働きかけられます。人間は器でしかないけれど、必要なものを与えられるだけでなく、自分の能力が最大限に活かされます。
参加者からは、雄勝花物語のビデオがとてもよかった、雄勝の町には訪ねたことがあるが復興に向かっていてよかった、エネルギッシュでわたしにはないものだった、感動で胸がいっぱいになった、等の感想が寄せられました。
今年は能登半島地震で多くの方が被災されました。日々被災した方々の様子がテレビに映し出されていますが、時間の経過と心の動きが解説されていました。最初は「負けないぞ」という高揚した気分があっても、不便な生活を強いられ、頻発する地震による恐怖、家族への心配、将来への心配などから、今の時期は幻滅期にさしかかっているそうです。被災者の心の健康が心配されます。徳水様もこの時期に家を、町を去る考えが頭を横切ったのではないでしょうか。前が見えないことの辛さを、被災者は語っておられました。それを乗り越えるために、心が折れそうになる中でも必死で生きている姿がありました。
幸い被害のあった地域に住んでいないわたしたちは、平穏な生活を送っていて、人の話しでしかその辛さが伝わりません。しかしいつ、何が起こっても強い心でいられるために、日頃からベストを尽くして神様のみ心を行う習慣を身に着けていかなければならないと思います。そのためには神様に常に繋がっている必要があります。徳水様のお話には聖書からの引用も多々ありました。神様のみ言葉が生活に根付いていると思いました。日々み言葉に触れ、み心を実践することを今年の目標にしたいと思います。
12/30 一年の振り返り
イエス・キリストの再臨についての真理を知ることができたこと。
霊的に啓発された一年だった。新教会の教えや説教に触れ、主がみことばの中に臨済されていることに、力をいただいた。
説教を聞いて終わるのでなく、説教を繰り返し勉強できる機会があったことがよかった。他の人の意見を聞くことができたのはよかった。
集いに参加し、皆と分かち合いができたことは良かった。ユーチューブで天皇家の起こりについて学び、新エルサレムの実現について考えてみるきっかけとなった。日本人はキリスト教徒は少ないが、霊的なことを考える人が多い。
興味深いお話:伊勢神宮にあるモーセの青銅の蛇や徳島県剣山へ行く途中の磐境神明神社にパレスチナの礼拝場。
集いで普段、人と出来ない話ができるのがよかった。コロナ前、エルサレムやベツレヘム、エリコに旅行し、キリストが誕生し、生活した場所を見るのは感慨深かった。コロナが終わり、やっと旅行ができるようになったので今後イタリアやトルコにも訪れたい。
自動車事故に遭遇してしまい、不幸に嘆いていたが、よく考えてみると、命があることだけでなく、幸運だった様々なこと、これを通して学ぶことがが沢山あったことが分かり、神様に感謝しかなくなった。
11/26 「結婚」について
今回息子の結婚と、参加者皆様の結婚についてのお話をいただきましたが、とても大きな学びとなりました。わたしは物心ついた頃から両親からは、同じ宗教の人でないと結婚してはいけない、というようなことをずっと聞かされていたため、実際に自分の息子がそういう状態になって、宗教面では不安で一杯でした。お相手は敬虔な仏教国出身の仏教信者だからです。しかし、今回参加された方々も、もともとはキリスト教でも新教会でもない方もおられ、たとえそうであっても夫婦で宗教が違ったりと様々でした。皆様のお話を聞くにつれ、神様が無限の愛をもってお一人おひとりを大切に導かれていることが、あとからメモを読み返すと非常によく伝わってきました。この皆様からいただいた貴重なお話の時間を心から神様に感謝したいと思います。
10/22 「天界」について
今回は天界の巨大人や社会についてお考えやご意見をお聞きしました。はじめに会員様より、図を使って説明いただきました。天の国は無数の社会にの社会に分かれており、各社会は人間の形をしていること。そして社会の集合も人間の形をしていることを、宗教ごとに分けた図も使って説明いただきました。人間一人一人の霊魂が一人の人間として神様により統治されていること。それぞれの宗教にはそれぞれの社会があるということ。宗教で一番上に立つ人の本来の役割は、人に仕えること。一人一人の人間が全霊魂の土台になっているが、その土台がくずれ、修復するためにイエスが到来し肉体を栄化された。等等。
皆様からも色々なご意見をいただきました。
①天界の社会は、諸天界がまとまって一つの巨大人になるということ。
②天界には様々な職業があると言われるが、この世で必要なものがあの世で必要なくなるものも多々ある。この世でついていた職業があの世になくなると、あの世ではどんな職業が待っているのか。具体的な記述がない。
③あの世には時間と空間がない。夢の中には時間と空間がない、例えば空を飛んだり、死んでも死んでいなかったり。それに似ている。この世の仕事とは全く違う仕事が待っている。人の霊魂を救う仕事など、沢山ありそうだ。
④天界には教える仕事や音楽、芸術などの仕事はあるのでは?物質的なものがないのでお金を稼ぐ必要がない。
⑤天界には時間空間はないが、神と人に尽くすという役割はある。
⑥天界には役立ちという形での仕事がある。
⑦天界では衣食住すべてが与えられるので、なんの心配もいらない。
⑧地獄に行った霊は救われる可能性があるのか?ーーーあるのではないか?サンダー・シングはあると言っている。
⑨この世で犯罪者や死刑を待っている人を改心させるために奉仕する人がいるので、天界でもこの世の人を助けられる仕事が沢山あるだろう。自分がこの世でしてきた経験のある仕事なので、あの世でも人を助けやすい。
今回天界の社会について、天界での役立ちについて色々ご意見をいただき、また考えさせられましたが、具体的に想像し難く、あの世でいったい何が起こるのか、考えれば考えるほど不思議な気持ちにさせられました。それでもこの世で天界での生活について思いを馳せる時間を持てたのは、スウェーデンボルグの著作を読み、新教会の信仰を持っている仲間がいるからこそであることが、とても嬉しかったです。
9/24 「宗教を語る(宣教)」について
テーマは「宗教を語る(宣教)」でしたが、多くの学びがありました。このテーマにした理由は、宗教について語ることは非常に難しいうえ、夫婦で違う宗教である場合は、お互いに宗教の話ができるのか、家族や子どもたち、他人に話すことはあるのか、等、色々と疑問があったからです。他人にスウェーデンボルグの話は出来てもそれに基づいた教えについて話すのはかなりハードルが高いですが、一方、最近アルカナ通信でご紹介した神保氏はスウェーデンボルグの書籍を広めるのに、解説書を出したり、講演をしたり、オンラインラジオをやってみたりと、行動力には目をみはるものがあります。わたしも広めるために、もっと行動を起こさねばと思うのですが、まだはじめの一歩が踏み出せない状態です。皆さんのご意見をまとめてみます。
1 子どもたちは小さい頃は教会の日曜学校で神様について学んでいたが、大人になるにつれ、離れていった。他人には教会の話はあまりしないが、年賀状に聖句を書くことで、友人に喜ばれることがある。
2 家族には宗教の話は基本しない。話すことで宗教を強制することになってしまうから。
3 家族には話さない。心にその宗教を受け入れる準備がないと、話してもしかたがない。現代人は物欲が大きくなり、求めなくなった。
4 子供が小さい頃は祈りをし、教会に連れて行った。大人になり、キリスト教の知識はあるが信仰は育っていない。他人に教義や霊については話さない。話してもキリスト教を信じているということ以上に知ろうとしないことが多い。
5 友人が亡くなると、思い切って話しておけばよかったと思うことがある。真理を受け入れる力が与えられたから、真実の愛(仁愛)を持って、周りの人と話し、また人の話にも愛をもって耳を傾けるようにしている。
6 夫婦で宗教は違うが、自分のほうが知識がある、教義を頭ではわかっているつもりでも、妻のほうが仁愛の業、人を愛する心が勝っている。心が貧しい状態でなければ人に伝わらない。心で伝えなければならない。愛を伝える。
7 以前の宗教の頃は聖書の勉強を夫としていたが、今はしなくなった。教会の看板を立てたい。
その他、仙台教会の礼拝をズームで配信してはどうか、とか、高口様の講座を集いでやってみたらどうか、などのご意見も出ました。
皆様の色々なご意見を聞く機会があり、とても勉強になりました。ご参加ありがとうございました。