宇宙の諸天体 De Telluribus

宇宙の諸天体は、霊界にもある。水星、木星、火星、土星、金星、 月の住民の話を聞くが、れによって、地球住民の罪深さと恵みとを知る啓示の書


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内容紹介例:

EU136.  最後にわたしは、われわれ地球の種々様々な事柄について、その天体出身の霊たちと話しあいました。格別他の天体にはない科学というものが、ここにあるこ とを語りました。例えば天文学、地質学、工学、物理学、化学、医学、光学、哲学などです。その他技術がありますが、これは他の天体にはありません。例えば 造船、冶金、紙に文字を書くこと、活字で印刷し広報に供すること、地球上の他の人間と交流すること、さらに何千年もの後代のため保存することなどです。こ のようにして、主のみ手による〈みことば〉が保存されるようになりました。したがってわれわれ地球には、こうして啓示が、いつまでも保存されることになり ます。


あとがきより

 本書の原書名はかなり長く、『De Telluribus in Mundo nostro Solari, quae vocantur Planetae:et de Telluribus in Coelo Astrifero: Deque illarum Incolis; tum de Spiritibus & Angelis ibi; ex Auditis & Visis 』(惑星と呼ばれるわが太陽系の天体、および星天の諸天体について、さらにその住民・霊・天使についての見聞録)となっています。従来の英語版のタイトルは『Earths in the Universe』ですが、初めての邦訳版で、それをそのまま直訳して『宇宙間の諸地球』としましたので、これが現在までの一般的呼称として使われてきました。日本のスヴェーデンボルイ愛読者の間でも、かなりポピュラーになっている書物であるため、できればその邦訳書名を踏襲(とうしゅう)したいのですが、次のような理由から『宇宙の諸天体』が適当と思い、原典訳には「諸地球」のかわりに「諸天体」を使うことにしました。

 まず原典では、該当ラテン語名詞 tellus, uris, f. は、海に対する「陸」、天空の星々にたいする「地上の大地」のことです。わが地球にかぎらず、天空の星に生物が生息できる土地があれば、terra, ae, f.や orbs, is, m. のような同義語より、万物を支える意味での tellus になります。 ただ注意すべきことは、 tellus が固有名詞でなく、普通名詞であることです。天文学などで、「宇宙には、わが太陽系以外にも太陽系がある」と言うとき、「太陽」は普通名詞になりますが、日本語の「地球」にはそのような用法がありません。「地球」と聞けば、われわれ地球人類が住んでいる惑星のことしか頭に浮かびません。それゆえ、「宇宙には地球以外の地球がある」と言ってもぴんときませんし、「水星の地球」と言っても何のことか分りません。「宇宙には、地球以外にも人が住める天体がある」とか、「水星という有人天体」と言えば分かります。それでラテン語のtellus を英語版で earth としか訳せなかったにしても、本書では「地球」と訳さず、普通名詞の「天体」 を使うことにしました。さらにコンテキストによっては、いっそう意訳して、「人類居住地」また 「有人天体」にしたところもあります。

 スヴェーデンボルイの著作の中で、本書はとくに科学的根拠を欠くと言う理由で、著作を啓示の書と認める人々の間でも問題にされてきました。太陽系の惑星に人間が住んでいるとか、月にも人がいると言っても、現在ではだれも信じません。とくにアポロ宇宙船が月探検を果たし、月に人間が住んでいた痕跡が発見できなかったばかりか、生物にとって生息可能な土地ではないと断定されてからは、本書が科学的に矛盾するもの、現代人には受け入れられないものになっても、無理からぬように思われます。

 スヴェーデンボルイが生きていた一七七〇年の初め、著者と文通のあったエッチンゲル氏は、本書がフィクションではないかとの疑問を著者自身に直接投げかけています(文献録Ⅱ・1058)。またスヴェーデンボルイ自身が記すところによると、本書を含め自著何冊かをヨーロッパの数多くの司教や君公に贈呈していますが、司教たちは著作を手に取って眺めて、渋い顔をして脇へ投げ出し、本書を自分たちの蔵書に加えるに値しないものとしたそうです(啓示された黙示録7l6)。

 ところが著者みずからは、本書を重要視していました。その証拠には、本書の出版当初、これを自分の代表作『天界の秘義』の一部として出しただけでなく、あとからまた別冊として出版しています。本書を出した前年の一七五七年といえば、スヴェーデンボルイが霊界で最後の審判を目撃した年で、その翌年の一七五八年から、神学的著作を次々に出版しています。大著『天界の秘義』の執筆は終えていましたが、霊界での審判目撃直後に著した本書、それにつづいて『天界と地獄』、『最後の審判とバビロンの滅亡』、『新しいエルサレムと天界の教義』、『白馬』など、目白押しに主要な書物を著わしています。『黙示録講解』と『霊界日記』も相前後して執筆中でした。しかも本書を開いてすぐ目にとまるように、『天界の秘義』からの引照は豊富です。したがって本書を非科学的として除外することは、スヴェーデンボルイの神学的著作全体を非科学的という名目で一蹴するのと同じことになります。

 まず誤解の発端は、現代のサイエンス・フィクションやオカルトもの、あるいは宇宙人の宇宙船に同乗して宇宙探検旅行をしたアダムスキーのような経験と混同するところからきます。スヴェーデンボルイが本書の中で再三主張しているように、記述した内容は、あくまで霊の世界での出来事です (47、127節参照)。スヴェーデンボルイの物理的身体は、おそらくは自室のベッドか椅子にじっとしていたことでしょう。その間かれ自身の霊の状態の変化をとおし、霊界で他の霊たちに会い、その話を聞きます。そして霊たちの眼をとおして霊たちの出身地である自然的世界の様子を目撃します(135節)。それはまた霊たちが、スヴェーデンボルイの霊の眼をとおして、地球の様子を知るのと同じやり方でした(「かれらはわたしの目を通して地球人の顔を見た・・・」52節)。

 ここで月を始めとする惑星、すなわち水星、金星、火星、木星、土星が出てくるだけでなく、太陽系から遠く離れた天体が五つまで記されます。そしていずれも人類居住天体となっていますが、霊の世界であるため、自然的世界の時間を超越していて、その惑星出身の霊たちがいつ頃かつての自然的天体に住んでいたかには触れていません。また霊たちの記憶の眼をとおして眺めた住民も、いつ頃の住民であるかの言及もありません。それは何億年、何十億年も以前のことで、その当時現在の地球のように生物の生息可能な状態だったのかも知れません。しかし本書で宇宙また天体というとき、それは自然界でなく、主として霊界にある宇宙とその太陽系について言及しているようです(135節)。霊界や天界にも、山あり、川あり、草原あり、都市ありで、当然、陸あり、海あり、地球あり、天体ありということになります。つまり霊界には、自然界に存在するものの原型(実体世界)としての霊的宇宙があるはずです。霊界にロンドン市が存在すると同じように、霊界には自然界とは全く違った原型としての実体的地球や諸惑星が存在します。そして人間は死後復活して、みずからに相応しい場所として、以前と似通った天体、似通った土地に移り住むでしょう。そのような霊の宇宙のなかに、天界、精霊界、地獄が存在する印象を受けます。たとえば霊界での火星、木星、土星が天界であるのにたいし、金星の一部と地球は地獄であるといった具合です。つまり霊界という全体像の中で、天界と精霊界と地獄に分けて考え、そこに住む霊たちの記憶を通し、かつての自然界と自然の宇宙を、時代を超越して見たのでしょうか。

 因みに、ラテン語の coelum i,n.は日本語の「天」に似ていて、死後善人の住む浄界である「天界」を意味すると同時に、星々が瞬く「天空」も意味します(英語ではこれを通常「heaven 天国」と「firmament 大空」で区別しています)。原典の4節には、 coelum が相前後して出ており、前者は「可視的宇宙 Coelum astriferum」、後者は「天のみ国 Coelum, Regnum Coeleste 」を意味します。少なくともラテン語で記していたスヴェーデンボルイの意識のなかでは、天界と天空は、同じ coelum というコトバで、相応を通じてつながっていたと思われることです(本書には、霊たちが自 然世界の惑星を見ているわけではないけれど、星々が天使たちの住まいと考える善良な霊が霊界にいると記している、47、59節参照)。

 本書でスヴェーデンボルイは、たびたび左側前方また、大脳の近くなどといった言及があります。これは、かれも言っているように、巨大人の中での位置づけです。人間一人ひとりが天界の雛形であるなら、巨大人の雛形でもあります。その点から見てスヴェーデンボルイがその特殊な霊的使命から、主の思召しによって、小宇宙(みずからの存在)の中にある大宇宙(巨大人また霊界)の相応関係を通し、大宇宙の一端を天界の光で記述したと考えられます。本書の43節(および107節)で、水星の霊が一般に悪霊の多い金星のほうに近づいたさい、金星の中にも善霊がいて、かれらと同調できる場合があることに気づいたとき、スヴェーデンボルイの大脳に著しい変化があったと記されています。このような記述は、霊界での動きを自分自身の脳の中でキャッチしたものです。さらに一般的には5節と156節に、巨大人と人体との相応関係がはっきり記されています。

 本書『宇宙の諸天体』がスヴェーデンボルイの創作であって、フィクションだとすると、それこそ一層の矛盾が生まれます。なぜなら前述したように、本書はかれの畢生の大著『天界の秘義』からの豊富な引用があることです。『天界の秘義』を受入れておきながら、本書だけを拒否するわけにはいきません。それだけでなく他の書、たとえば『霊界日記』などには、本書が著者の創作ではないことを裏付けるような私的記録がたくさん発見できることです(例えば、1532、5594には、霊・天使たちとの交流方法、3241/4には月の住民、4663には、本書にあるのと同様の星天第一天体についての記録がある)。それ以外の記録と照らしあわせてみても首尾一貫しています。本書は『真のキリスト教』や『結婚愛』の中にでてくるメモ Memorabiliaと同じように、霊として霊界で見たこと聞いたことを報告しているとしか解釈できません。スヴェーデンボルイ自身は、晩年の作『真のキリスト教』の中で、わが太陽系の地球以外の天体に、人類の居住地がある(あるいは「あった」)という事実は、かつてない画期的に優れた啓示である言っています(846節)。それではなぜ本書が、宗教書しかも主の啓示の書として大切か、まとめてみると次のようになります。

1.地球以外の天体にも人類が住んでいることは、主の創造された広大な宇宙の目的性にかなっている。宇宙には目的のない天体は一つもなく、すべては人類の成長発展のためである。さらに人類は、地球人の数をはるかに凌駕する数が存在し、それによって構成される天界・巨大人は、さらに膨大である。そして人は、みなその天界の苗床として永遠の幸福を得るよう造られている。

2.その同じ主が、ただわれわれ地球にたいしては、特別な配剤を示された。それは地球人の救いのためである。すなわちこの地球だけは、〈みことば〉が記録出来、それが子々孫々にまで伝えられるようになっている。ただし地球人類が宇宙の中心であると考えるのは、非常な思い上がりと傲慢からくる。他の天体の住民に比較して、顔が美しくなく、善を理解せず、悪辣で、外面的であり(52、6l節)、感覚的であるため、霊界ではヘビに見えるとある(148節)。

3.他の天体には、偶像崇拝者はいないし、見えない神を礼拝する者もいない。みな見える神を礼拝している(7節)。水星、金星などの住民には、傲慢や悪質な性格が見られるが、火星、木星、土星の住民の善良さは、地球人の最古代人を思わせる。とくに火星では、主のみ名にたいして深々と頭をさげ、眼を上にあげることもせず、礼拝をささげる善良この上ない人類が存在する(91節)。この太陽系の惑星および星天の天体の住民は、慨して善良、純朴、素直、謙虚でつつましく、主の掟を守り、自然と調和して生きている(50、97、98、151、152、176節参照)。

 地球人類は、巨大人の中でも現世的・肉的・地上的なものに関心があり(20節)、外部感覚に属すると言われます(64、89、122節)。他の天体にない科学の進歩があっても(136節)、宗教性に乏しく、堕落したものとして描かれています。ついでながら、霊界日記1588には、地球それ自身が腐った水の井戸のようだと記しています。

 以上が著者の創作ではない証拠の一つは、地球の相対化です。地球人を狭小で堕落したものとすることは、科学を誇り自己中心に物を考える地球人として、最も認めがたいことです。それを認めることは、科学者である著者みずからも含め、地球人全てを貶めることになるからです。フィクション作家であれば、世の読者の気持ちを汲み、地球中心の発想で、かならず俗受けするように記すでしょう。スヴェーデンボルイの場合は、それと全く反対に、本書を世の司教たちに贈呈するにあたって、蔵書にいれる価値もなく脇に捨てられることを予測できたにもかかわらず、本書を二度まで自費出版し、世に贈りました。それを主のご命令として実行しました。

 確かにわたしたちは、本書なくして、地球人類の絶対化と自己中心の傲慢を癒す術がないように思われます。その意味で『宇宙の諸天体』は、宇宙探検的科学書でなく、純然たる宗教書です。すなわち死後の世界にまでまたがる地球人類の命運に触れ、全天界の神である主の無限な包容力にすべての誉れを帰するとともに、主の地球人類救済にたいする特別な配慮を、宇宙的規模で分らせてくれる書物ではないかと思います。

1994年3月5日               訳者しるす